2つの資質~感覚と感性~

 森田敦史です。

 動くことを通して一体何をするのか?

 これを具体的に明示すると、感覚と感性を鍛える。というになります。

 ここでいう感覚とは、5感的な意味合いではなく、いわゆる俗に使われている感覚に近いと考えています。というよりもより深い意味合いとしてとらえています。常在感覚や潜在意識というイメージであり、わかりやすく言えば、その人の中心となりうる感覚を指します。無意識的な判断基準と言い換えることも可能です。

 例えば、ある事象が起きた時にいつもその事象に対してケチをつける癖のある人。その人の無意識的な判断基準です。おそらく後天的な体験の積み重ねによって何事においてもケチをつけるという癖がついている、時としてその事自体に気づいていない。

 身体に置き換えて説明すると、軽く動く、という感覚が常在感覚として明確に存在している方は軽く楽に動くことが当たり前だということになります。反面、重く動くという感覚が常在感覚として存在すると重く動くことが当たり前になるということです。

 これ自体、当たり前ですが立ち上がる際に「よっこいしょ」と動く、座るとため息をつく、などの些細な行為を積み重ねていくと知らず知らずに常在感覚まで染み込んでしまいます。体軸法において、安易にため息やよっこいしょ、などの重さを積み重ねる言動や行為は慎むべきであると考えているのはこれが理由です。

 ほんの些細な事なのですが、結局人間をつくるのはこういった日常の積み重ねでしかありません。そういう意味では些細な事をおろそかにする人は、些細な事に泣かされるということです。

 クローン病の場合で説明すると、患者さんの多くはお腹を触る癖があります。何となく、ついつい手がお腹にいってしまいます。お腹が痛いときであればうなずけるのですが、そうではないときでも常に触ってしまいます。弱い部分を守ろうとする本能的な防御反応という観方もできますが、裏を返すと不調が起きやすい部分を触るという行為は、常にお腹の状態を確認し、不調を認識している。という体験の積み重ねをしているという解釈もできます。

 その積み重ねによって、腹部の反応を過剰に捉えてしまうという皮肉な現実を引き起こすこともあります。自分はお腹の具合がよくない、という事実を認識すればするほど、その認識した体験は常在感覚に染み込んでしまうという考え方です。腰痛でも肩こりでも、慢性期になると治りにくくなるのはこの常在感覚化が大きく影響していると考えます。

 身体を身体の理屈だけで量れないのは、こういった常在感覚・潜在意識にまで不調が入りこんでしまっている難しい問題があります。病は気から、という今や誰しもが知っているであろうこの言葉、その病がその人にとって常在感覚化し、潜在意識下に当たり前の状態としてなってしまうことだと私は考えます。病気や不調を中心にして生きているというのは、正にこのことであり、問題は本人がその事に気づいていない場合が多々あるということです。

 この解決策としてあるのが、中心をつくるという作業です。体軸法のレッスンや治療では、この常在感覚や潜在意識を“動く”ことによって変革をもたらし、また病や不調ではない“中心”をつくる作業をします。心を変えるというのはこういった作業の積み重ねになるのかもしれませんが引き続きより深い考察が必要と考えています。

 ちなみに動くという行為は実に便利な行為で、こういった常在感覚・潜在意識といった感覚と、実際に動きの結果は身に作用しますので、表現体(姿勢等)も変わるという、いわば一つの行為で両得です。

 身体としてマクロ的に言えば、幹枝(体幹と手)・体勢をよく考慮し、首と腹部を緊張させずに動くという体験や軽く楽に動けるという体験を積み重ねることによってそれが当たり前の状態、常在感覚化してしまえばよいということです。

 ここまでが感覚のあらまし、以下は感性についてです。

 感性とは、言い換えると事実認識力です。事実を事実とし捉える力、もっと言えば事実を感情で脚色せずに認識する力ということになります。

 感情が動きに影響を及ぼす際には、個人によって異なりますがその率があります。つまり、特定の感情により身体の緊張性動作を誘発するということですが、それは人によって違います。大きなストレスを受けても身体に反映されにくい人が存在すれば、逆に些細な出来事ですぐに身体に反映される方もいるということです。

 感情の動作への反映は、単に事実を事実としてとらえるという体験と積み重ねる事が最もシンプルかつ有効な方法ですがそんなに簡単な世界ではありません。健康というテーマで言えば、感情が動作に反映されるのは無知からくるものが非常に大きいと思っています。無知から不安や恐怖が生まれ、それが動きへ、動きから身体へと反映されます。啓蒙の重要性とは無用な不安や恐怖を緩和することであり、無知をある程度解決してあげることだと考えます。

 もう一つの側面から言うと、事実認識力は治療やレッスンによる身体の変化を感じる能力とも言えます。つまり、どんなに素晴らしい治療やレッスンを受けても、それを感じ取るだけの認識力がなければ意味がないということです。変化したという認識の積み重ねが感覚化されていくのですから、認識力のない人は重大な問題があるということになります。もちろん治療師や指導者側に認識しやすい環境設定をするという責務がありますが、これは治療師・患者(生徒)が同等に負う責任であり、さらには患者さんの長期的視野に立てば、これを強化することは色々な意味において絶対条件になってくると考えます。

 ということから事実認識力なしには、常在感覚化は難しくなると思っています。つまり、感覚や感性は常に相互関係にあり、同時並行して強化していくことが大切です。筋肉や関節の緊張を取ることも大切ですが、こういった作業はもっと大切だと思います。

 またもや長々と書いてしましましたが、次回は3つの定義について考察してみたいと思います。3つの定義とは、健康の定義・治療の定義・治るの定義です。よろしくお願いいたします。