治療と儀式とプラシーボ

 なんだか、そうぞうしいタイトルになってしまいました。

 治療という存在の一側面をみていきたいと思います。

 多くの治療法が存在する現在、全く違う主義主張においても、それぞれがそれなりの効果を出している事は周知の事実であると思われます。

 全く違う理論でも、効果を出す・・・
 ある状況で、右へ行けと言っている人間も、逆に左に行けと言っている人間も効果を出すろいう事実です。

 例えば、この腰痛の原因は仙腸関節という人も、エネルギーの欠乏という人も、股関節といういう人も、顎関節と言う人も、それなりの治療理論に基いて結果を出しているのです。

 こう考えると、何が正しくて、何が間違っているのか・・・

 この結果を多くの方は治療手法の問題として、結論を治療手法に求めようとすることが多く見受けられます。

 その結果の一つとして、実に多くの治療法や治療スタイルが出来て現在に至っていると考えることができます。

 結果的には、えんえんと治療法を探し求めるか、自分に最も合った手法に落ち着く傾向がみられます。

 治療法には、確かに優位性や特徴があるという事実もありますが、私は時として、治療は一種の儀式的な要素を持っているのではないかと思うことがあります。

 極端な事を言うと治療法自体が問題なのではなく、患者さんの心の変容が問題なのだと・・・

 つまりは、治療によって心が変わる、治療という儀式的な演出によって患者さんが変わるという側面も多分に含まれるということです。

 私の経験では、治療を受ける前にすでに挨拶を交わしただけで改善されてしまうケースなどよくあることです。

 また、激痛の脊柱管狭窄症の患者さんでしたが、足をさすっただけで3回で痛みが消失するということもありました。
 この患者さんの場合、極度の不安があったようで治療よりも「大丈夫」という言葉が必要と判断し、しかし何もせずに「大丈夫」と言ってもダメなので、足をさすった訳です。それでその後も完全に消失してしまいました。

 こういったケースは実に多く存在いたします。

 大なり小なりはほとんどの患者さんにおいて、このような効果は確認されております。 

 そう考えるとこれは暴論になりますが、プラシーボは偽ではなく本態であり、治療が偽という認識をすることも可能となります。

 全てのケースがこれに当てはまる事はないと思いますが、治療法それぞれを比較検討しても理論的な共通項を見つけ出すことは困難でも、心という存在が共通しているという事実は見逃せません。

 神に祈って治った人も、鍼灸を受けて治った人も、お払いを受けて治った人も、結果治った人のやったことや受けた事の共通点はなくとも、心の変容という共通点は存在します。

 特に難病の場合、それが顕著に出てくるものと日々痛感しております。

 情報提供:渋谷鍼灸理学治療室 体軸法 渋谷