心と身体の理を一つの考え(仮説でもいい)として示すこと

 森田敦史です。はっきり言って面倒くさい記事です。

 健康を説くにあたって、心と身体は一つであるということは、色々なところで言われており、これに異論がある方は少ないのではと思います。

 ということは、健康体を創る場合、心の理だけでも、身体の理だけでも不十分であるということは容易に想像できます。

 でも、なぜか巷では、●○体操で健康になりましょう、というような。また、そもそも心と身体は一つであると言いながら、身体的解説しかないものも存在します。

 明らかな矛盾だと私は感じてしまいますが、ここが難しいところでもあります。心と理と身体の理をどうつなげていくのか?というのは最大のテーマだと勝手に解釈しています。

 心の理と漠然と言っては語弊がありますので、あえて言えば、感情の理です。

 要は、どこそこの筋肉が緊張して、関節がどうなって・・・という話と感情をうまく考え方としてくっつけないと心身の仕組みをうまく説明できないのです。

 筋肉や関節などの形を、一つの表現体という言い方をすれば、感情と表現体をくっつける必要があり、そこに“動き”を入れてみるとうまく繋がります。

 感情ー動きー表現体。つまり、心ー動ー身ということです。

 簡単に言ってしまえば、心の有り様は動きに出て、動きの有り様は形(身)に出る。

 であるならば、心身を同時にコントロールする術は“動く”という行為によって取り組むと比較的やりやすいということになります。

 動きによって、表現体が変わるということは、動きの質(動かし方)の世界です。動きによって心(感情)が変わるということは、動きの際の注意のコントロールです。

 つまり、動くということで心身を変える場合は、動くという行為の中に、動かし方と注意の仕方、という2つの要素がないと成り立たないということです。

 動かし方だけでは不十分、注意の仕方だけでも不十分。

 この2つの要素を満たして動くという行為を行うと、心身が変わるきっかけが作れるのではないかという仮説です。

 さらに掘り下げていくと動かし方にも考え方があり、注意の仕方にも考え方があります。

 一つの動法を作る背景には、こんな考えがあって、さらに開発したものを実際に試すというフィルターにかけて、その通りの結果になったものが、最後は愛子先生の直感という一番難しいフィルター(笑)を通して、ようやくレッスンでの動きに採用されるという流れです。

 こんな内容を座学と実践と通してやっているのが体軸法指導塾です。

 情報提供:体軸法 渋谷鍼灸理学治療室 森田敦史