難しいですが試してみる価値ありかも?

 森田敦史です。

 ふとした瞬間に湧く疑問をそのままそういうもんだ、というように放置せずに考察してみるというのは面白いものです。人間を制限している大きな要因の一つとしてあるのが、●●するのが当たり前、という無意識的な観念であると考えます。自分の希望いかんにかかわらず後天的に培ってきた観念が大人になって、自分自身の本心とバッティングし、悩みの原因になるというのはよくあることです。

 当たり前というのは、必ずしもそうではないという事もあります。何かを対象にした安全神話などは最たる例です。

 しかし、当たり前に従うのは最も簡単な道です。なぜならば、自分自身で思考する必要がなく、ただ当たり前だから、という時として理由にもならない理由によって納得できるからです。この当たり前が揺らぐとき、人は混乱します。今まで当たり前という船の上に安心して乗っていたのが、実はそれが泥船だったと気づいたようなものですから無理もありません。特に人間が創った当たり前は非常に危ういことは言うまでもありません。

 だから、最終的に自然回帰する人が多いのでしょうか?

 話がだいぶそれてしまいましたが、健康でも割と同じことが言えます。よくよく考えてみるとおかしな話など挙げればきりがありませんが、その一つの考察してみたいと思います。

 なぜ人はつらいとつらい動きをするのでしょうか?その感覚を象徴するような動きをするというのが人間の特徴です。悩んでいると悩んでいるように見えるのは、悩んでいるような動きをしているから、その悩みを象徴するような動きを人は観て、あの人は悩んでいるのだろうと判断します。

 だるいときもそう、だるいという感覚を象徴するような軸を崩した動きをする、そのさまを観て、あの人は悩んでいるのだろうと判断します。暑いときもそう、暑いという感覚を象徴するような動きをするから、そのさまを観て、あの人は暑がっているんだなと判断します。

 重いというのもそう、重いという感覚を象徴するような動きをするから・・・ということになります。

 これは当たり前の事のように感じますが、よく考えるとこれはいったい誰が決めたんだろうと思うことがあります。

 なぜ、悩んでいると下を向く必要があるのか?

 なぜ、だるいと軸を崩す必要があるのだろうか?

 なぜ、暑いとうだるのだろうか?

 これは人間の本能というよりも、後天的に学習したと考える方が自然だと考えます。特定の感覚の際の特定の反応(動き)を周囲の人間を通して無意識的に学習し、無意識的かつ疑いもなく当たり前のように自分も実行するということです。

 それが人間、しょうがないじゃんと言ってしまえば話は終わりですが、私にはどう考えても、その理由がみつかりません。理由が見つからない以上は、それをやる必要がないということになります。ましてやそれが自分の身体に対して自分が望まない結果として反映されるのでればなおさらです。

 いつも下を向いている。

 いつも軸を崩している。

 いつもうだっている。

 いつも=常、積み重ねるとそれが常在感覚となります。無意識的にそうしてしまう心身が良くも悪くも出来上がりになってしまうということです。

 これに関して私がしていた取組みは至ってシンプルです。自分の中に生じた感覚を感覚のままにしておき、それを表現しない。つまり、その感覚を象徴するような動きをしないという取組みです。以下が具体的な例であり、いくつか挙げてみました。

 ◆暑いときに、暑いと思っているが、暑そうな顔をする必要がない。

 ◆だるいと思っているときに、だるさを感じているが、身体の軸を外した姿勢をとる必要がない。

 ◆悩んでいるときに、呼吸を止める必要がない。

 ◆悩んでいるときに、下を向き頭を抱える必要がない。

 ◆イライラしているときに、物を粗雑に扱う必要がない。

 つまり、それをする必要性や理由がみつからないために、それをする意味を感じられず、意味を感じられないのであればやらないという理屈です。

 こういった当たり前だと思っていても、実はそうではなかったという事は多々あるということです。

 当たり前ということ、これからも検証していく必要があります。