駄目なものは駄目という普遍性

森田敦史です。

かなり久しぶりの更新です。

身体には絶対的な法則性があり、絶対という言葉はないと言う方もいますが、そんなことはなく絶対的な法則があります。それは身体は生まれてから死ぬまで、変化し続けるという事です。これだけは変わりありません。つまり「変わり続ける」という変わらない法則があるということになります。変わり続ける身体に対して自分自身も変わる続けることを適応すると考え、その力を適応力と言えます。簡易に言えば「なじむ」ということです。

この法則に逆らうということは退化を意味します。つまり。変わり続ける身体に適応することを放棄した瞬間から身体は本格的に退化します。いつも言うのですが健康体とは固定されたモノではありません。過去の成功例に縛られてもダメ、例えば不都合がなくても今の生活の過ごし方が将来有効とは限らない、どこまでも適応するしかないというのが実情です。

そんな絶対的な法則性の下、身体には様々な現象が起こります。現象があるという事は現象に至る原因と作用というものが存在します。

絶対的な「変わる」という法則の下、様々起こる現象・作用・原因、それらをどのように捉え、その都度どのように1つの存在として身体を統一し続けていくのか?というところが自分自身の身体を最期まで全うする為に必要な考え方です。これがその都度の理想体を追求することであり、構成する力、構成力と考えます。また中心、戻るところという言い方でもわかりやすいかと思います。

そのために何をすべきか?どの段階で何が必要か?という事が次の段階です。

こういう一つのビジョンで健康を考えると、受動的な治療(施術)のみで健康がつくれるはずがありません。「治す」という言葉の現実的な意味は健康になるということではなく、治すというのはわかりやすく言えばマイナスを0付近プラスアルファまで引き上げることで、その先もしくはそれとは別に、そもそも違う作業も必要になってきます。

以前にブログで紹介したように“何をもって治った”とするか、ここは絶対に曖昧にしてはならないことだと思います。というのもここが一つのゴールだからです。

症状が消えるところがゴールなのか?不調が起きにくい身体に作り替える事がゴールなのか?自分自身で基本的にはコントロールできるところがゴールなのか?

ここの目指すべきビジョンがふにゃふにゃしていると、どこに向かっているのか共有できないばかりか、誤解を生む原因にもなりかねません。

ちなみに私は治療院は施術を受けて治してもらうところ、治療師は技を施し治してあげる人、という一般的イメージが極めて嫌いです。確かにそういう仕事を求められている時が多い事を自覚していますが、求めに応じてばかりでは物事が進まないような気がしてなりません。もっと積極的に耳の痛いことも含めて提案すべきところは提案してもいいのではないか?少し大きな目で見れば、自分の身体のトラブルをきっかけにして、そもそも自分の身体をどう扱うか?という根本的なところが問われているような気がしてなりません。

多様性は認めつつも、駄目なものは駄目、という普遍的なところを今後も発信していきたいと思っています。