質問することの裏にあるもの

森田敦史です。

ちょっと辛辣な記事ですが、真意を汲み取っていただければ幸いです。配慮の足りない表現と感じるところがありましたら、どうかご容赦ください。

教わった事に真剣に取り組んでいる場合、真剣に取り組んで実践しているかどうかをはかる物差しがあります。

それは、“質問”の有無です。

まずもって、やっていない方は質問しません、というよりもやっていないので質問のしようがないと言った方が正確かもしれません。また、やらされている感で一応やっているという方もあまり質問しません、しても建設的な質問ではありません。

そして、真剣に解決思考でやっている方は必ず質問します。

なぜそうと言えるかというと、教わった事を1回で修得できる方などまずおらず、であるならば真剣に修得したいと思っているのですから、当然気になるところ、わからないところがあり、それを聴いてくるということになります。

こういう方は多くの学びや気付きを得るタイプで、結果が出やすい方です。

 

実はもう一つあります。

それは、質問してよいかどうかわからず質問したくても出来ない、という過剰な謙虚さを持った方の場合です。

これに関しては確かに質問OKですよ、というメッセージが伝わっていない、質問させないような雰囲気として捉えられているという点においては伝える側に責任の一旦があります。しかし、本当のところ、質問したくてもできない、どうしようか・・・というのは主体性・積極性に欠けます。聴きたいことがあるならば、

「質問してもよいですか?」という言葉があってしかるべきです。

本当に得たいと心から欲するのであれば、喰らいついてでも質問するはずです。受動的な性質の方もいるでしょうが、しかし時には、自分にとって重大だと判断した時にはやはり自分から声を発するということも大切なことだと考えています。それをしないという事は厳しい言い方ですが、それだけの意志しかないという判断ができます。

チャンスは自分で掴むものです。

とすると、結果的にやはり“質問”の有無は、真剣に解決思考で実践しているかどうかの物差しになります。もう「先生にお任せ」の時代ではありません。それは単なる思考放棄です。

一人ひとり個人が、本当に幸せに天寿を全うしたいと願うのであれば、それに対して健康というのは絶対条件になり、絶対条件である以上、本気で主体的に取り組むべき課題です。

当たり前過ぎて最近言ってませんでしたが、健康は与えられるものではなく自分でつくるものです。

治してもらう・楽しませてもらう・サービスしてもらう。

そんな発想ではなく、自分から治しにいく・楽しみにいく・サービスを協力的に受ける。という参加する行為が主体的な行動です。いい加減、してもらう発想・お客様発想から抜けなければ、いつま経っても何も変わらないということです。

主体性を持って、自分の身体の育てなおしをするということ、その一歩として質問するという行為が存在するのではないでしょうか?

以上ですが、これを読んで、一理あると感じる方と、治療師側の患者さんへの傲慢な責任転嫁だと感じる方もおられるかもしれません。

その判断は読んだ方お一人おひとりにお任せするとします。

 

読んでいただき、ありがとうございました。