表裏・陰陽の果てしない拡大

 森田敦史です。

 動くこと、マクロとミクロで観ていくのがわかりやすいと日々思っています。

 身体を大きくみたときの動き、細かく各部位、関節を観たときの動き。

 マクロもミクロも原理は似ているのですが、マクロから入った方がわかりやすいかもしれません。

 しかし、細かく言えば、マクロはミクロであり、ミクロはマクロである。という事実も存在します。つまりはミクロとマクロは分けて考えるとややこしくなることがあります。

 しかも、マクロは基準を変えるとミクロになり、ミクロも基準を変えるとマクロになるところが非常にややこしいところでもあります。

 例えば、母Aと子Bでは、母Aが親子という意味では上だとすれば、子Bは下。しかし、そこに母の母Cが入ると、さきほどまでは上だった母Aは下になります。また、そこに学校という要素を入れると子Bが表であり、母Aは裏になります。

 さらに言えば、母A・子B・母の母Cという家族。学校の裏に住んでいるとすれば、学校という基準で考えると、その家族自体が裏になります。

 どこまで行ってもそういう世界の広がりです。
 
 人間にも動く時には、身体の各部によって固定要素と移動要素があります。

 でも、人間自体を固定要素にしたり、移動要素にすることもあります。例えば二人一組みでの運動は一つの例になります。前に立つ人、後ろに立つ人。台になる人、その上で動く人など。

 運勢で言えば、固定要素の中で自分がいかに移動していくのか?この時代でいかに自分が動くのか?という読み方です。

 人間の集まりであるコミュニティ自体を固定にしたり、移動にしたり、コミュニティの中にも固定的な人と移動的な人、とにかくそんなこんなで考えていると、頭がややこしくなってきます。

 そういう意味では、何かをやろうとする人がいると、それを邪魔する人がいるというのも自然の法則ですね。生まれる人がいれば、死ぬ人もいる。

 その観点から考えると、「斉しく(ひとしく)平等に」という事を考えるのが悩みどころです。それもこれも一つの基準次第かもしれません。

 基準があいまいであると混乱を招きます。

 体軸法が健康というテーマを外れないのは、健康という基準で考えた時に十分でも、例えば競技という基準で考えると不十分になる要素もあるからです。

 より明確に、よりわかりやく基準を創っていくこと、そしてその基準の中で動く人間を調和していくこと、これが私の大きな仕事の一つだと解釈しています。