精神論を技術論に落とし込む

森田敦史です、お盆休みに入っている方も多いかと思います。

ご存じの方もいるかとは思いますが、当院で採用している動きの癖を修正する方法、これは元々スタートしたのは精神論からです。身体の理屈から方法を創ったというよりも、精神論から始まる心ー動ー身という考え方のもとで理屈は後付けです。

奇跡的な回復を遂げた方や完治不可能と言われる難病を治した方の多くが言うのは、最も大切なのは心であるということ。心が変わって治った。人によっては、「全てを委ねる」「ありのまま」という表現を使う方もいます。

確かに精神論は大事です、はっきり言えば精神の在り様が身体をつくりますので、最も大事です。しかし、ここに落とし穴があります。

それは〝言語イメージ”です。

人が多様化しているということは、ある一つの言語に対しての解釈も多様化しているという現実があります。

例えば、「ありのまま」という言語に対しての解釈。

ありのまま、という言語の定義は何なのでしょうか?

人によっては抗う事を止める、という解釈し、人によってはもう我慢するのを止める、という解釈、人によっては今のままでいい、という解釈。

全く違いますね。

解釈によって実践する際の行動も変わってくるのは当たり前の話ですから、「ありのまま」にして成功した人・失敗した人を「ありのまま」の定義を明確にしていない以上は、言語は同じでもやっている事が違う以上は、同じ土俵で語ることはできないはずです。

本来、同じ土俵で語ってはいけないのに、そうしている事象が多いなと日々感じます。

かと言って、心が変わって病気が治ったという事を信じていないわけではありません。

かくいう私自身も13歳で難病になり、約10年かかって克服したのですが、克服当時は「どうして治したのか?」と言われれば、やはり「心」という表現をしていました。しかし、それだけでは伝わらないですね。

伝わらない経験を積み重ねていて、ふとした瞬間に、

「心で病気を治したのは・・・おかしいんじゃないか・・・?」と思うようになり、

心が変わることで、何かが変わっているはずで、その何かが問題。

自分自身の中で、病中と克服後を比較し、その何かというのが〝動き”だったわけです。

動きによって心をコントロールし、同時に動きは身をつくる。という至ってシンプルなところです。

〝動き”が変わったのであれば、どういう動きから今の動きに変わったのか?という比較検証。

比較検証と同時に、患者さんにその考え方を当てはめて確認作業。

そこからわかった人間が持つ普遍的な課題。

そこから動きの修正法が生まれる。

つまり、一つの型が出来、様々な方のお役で少しずつ立てるようになっています。

自戒の念も込めて「気持ちの問題」という言葉は出来るだけ使わないようにと日々言い聞かせています。正確に言うと、特に問題を認識した初~中期です。そうすると、進歩がないからと思うからです。

あくまでテクニカルに考えていきたいものです。