「想いの力」あなたはどう思いますか?
その人の想い次第で、難病を含めた病気も治ってしまうという話です。
本当なのでしょうか?
スピリチュアルや思想などに多く言われており、事実それで治った人も確かに存在します。
私自身、東洋医学的な治療を受けずに、「想」のコントロールだけで難病を克服した事実があります。病気になる「想」と健康になる「想」があることも事実です。
理知的な治療師であれば忌避したがるこの事実、「想い」の力だけで病気が治るわけがない、と言います。そして「想い」は社会的に責任ある医学ではないという側面も・・・
私も自分の身体で体感しなければ、こんな事に執着しなかったでしょう。しかし、自分自身の身で体感してしまった以上は、これ以上ない偽りのない事実ですので、認めざるを得ません。
「想い」では治らない、という事は体験上、嘘になってしまい言えない苦しさがあります。
この点、体験していない治療師は楽です。体験していないのですから・・・
当然「想い」の力で治らない患者さんもいますが、東西問わず医学で治らない患者さんもいます。想いの力で治った患者さんもいますし、医学で治った患者さんもいます。ようは同じことです。
この「想い」は、信じる信じないという話ではなく、この事実をどのように判断するか?です。それくらい「事実」という存在は重いものです。
そして社会的な治療師であるならば、目の前で起きる現象・事実を解析する責務を追っています。その責務とは、スピリチュアルや思想的な解析するのではなく、論理的に説明がつくように解析するという責務です。
前置きが長くなりましたが、本題はここからです。
想う事で何がどう変わるのか?
エネルギーが変わる?
神秘的な無限の力が働く?
このような解説は多々ありますので、私が言うまでもありません。
問題は、想う事で身体的にどんな変化がおきるのか?また、想って病気を治す人は、身体的にどんな変化・プロセスを経ているのか?想っても治らない人はなぜなのか?ということです。
結論から言うと、想いの力で回復する場合、明らかな特定の身体的な変化があります。
しかも、これは限度はありますが可逆的でもあります。
つまり、想いの力で明らかな特定の身体的変化を起こさなくても、その特定の身体的変化を起こさせればよいという事です。
想わなくとも、想いで起こる特定の身体的変化を再現できれば良いということです。
その特定の身体的変化を起こすと、おのずと想いが変わるのです。
つまり、どちらが先でも良いということです。想いからでも、特定の身体的変化からでも良いのです。
難病や奇跡を起こした方がほぼ共通して言う事に「感謝」があります。心の底から感謝したかったのでしょう。
ややこしくしているのがその「感謝」の対象です。
・宇宙エネルギー
・大自然の恵み
・人の愛
とても大切な事なのですが、こうなると医学とは離れてしまいます。
難病の方が、こういった世界に踏み込めないのは、これが大きな原因です。
一言で言うと「宗教くさい」のです。
(注:宗教が良いとか悪いとか言っているのはありません)
ところが、めずらしい事に難病を克服した私、
難病を完治・克服する際に
「感謝」「愛」というような存在は関与していません。
どこまでいっても特定の身体的変化を追求しただけです。
みるべきは「想い」そのものというよりも「想い」によって起こる特定の身体的な変化なのです。
合理的に、その特定の身体的変化を起こせばいいわけです。想いで治らないのは、想っただけで、特定の身体的変化が起きていないからです。想いの力が足りないからではありません。
そこにはスピリチュアル・思想的な側面は一切ありません。単なる理屈です。
その特定の身体的変化を再現するために追及したのが、体軸法なんですね。
情報提供:渋谷鍼灸理学治療室 体軸法 渋谷