プロセスカットとプロセスラーニングの狭間

 森田敦史です。

 ここでは腰痛や肩凝りなど慢性的な動き等の積み重ねによって生じた不調や痛みという基準でお話します。内臓疾患、感染性疾患、急性期疾患などは除外ですのでご了承ください。

 治れば何でもいい、という言葉をよく聴きます。

 特筆すべき治療家が治療し、結果を残せば残すほどに一種のプロセスカットを生じます。慢性的に積み重ねてきた事による不調や痛みの場合、プロセスカットして快癒に導く事が治療家の存在価値であるという視点がありますので決して否定するものではありません。

 例えば、症状があるというスタートA,症状が治癒したというゴールC。という結果に対し、どんなプロセスを経ているのか?ということです。

 プロセスB、治療家の特筆すべき治療技術によって痛みが消失した。
 
 この場合、大幅なプロセスカットです。つまり、患者さんは治療家の特筆すべき治療技術によって、自分が今まで積み重ねていたものや本質的な問題に目を向ける事が少なく、一応をゴールを果たします。不調や痛みは身体にとっては一刻も早く取り去った方が良いですので、治療家としては一流と考えて自然です。

 しかしその一方で、プロセスカットには、そのプロセスで得る学びや気付きがあまりありません。慢性的な不調の多くはその人の問題の積み重ねによるものが大きく、実際にはその人自身で気付き、修正することが求められると考えています。その中で想いもよらぬ発見などがあるものです。

 こういう作業をしないと、同じ類の過ちで再燃する可能性が高くなります。

 さらにしかし、身体の不調や痛みが強い場合にプロセス云々と悠長な事は言ってられませんので、治療は大きく分けて2段階考えています。

◆痛みや不調が激烈な場合は、まずはその痛みの除痛。

◆痛みや不調がプロセスラーニングが出来る範囲内では徹底してプロセスを追求する。

 この2つの境目が極めて難しいところです。実際には割合の問題ですが、プロセスを求めてよい段階・状態とそうではない段階・状態をよく見極めなければ結果的に患者さんの不利益に繋がりますので注意が必要です。

 私達の〝身体を育てなおす”というコンセプト、こういう言葉をコンセプトにしている以上、治れば何でもよいという立場ではありませんし、治療家はトラブル解決人だけであるとも考えていません。

 患者さんのどこを観ているのか?

 今を観るのは当たり前。同時に未来を観ています。未来とは、究極はその患者さんがどのように死を迎えるのか?というところまで観るように心がけています。