森田敦史です。
師匠「そこを持つときは手に力を入れないでやるんだよ」
弟子「先生、手に力を入れないと持てません」
言葉尻りだけを捉えると、こうなります。
当たり前です。手を使って何かを持つとき、手に力を入れなければ持てません。
しかし、本当に意図するところは「そんなに強く力を入れると力んでうまくいかないよ」ということです。
こういうやり取りを師匠の説明不足と捉えるか?弟子の意志の汲み取り能力の問題と捉えるか?
難しいところですが、弟子の立場からすれば大切なのは、その言葉の意図するところを汲み取る力、これは恐らく様々なところでの洞察力に繋がりますので身につけるべきと考えます。
何でも的確な指示を受けないとできないようでは、おそらく自分ひとりになった時、何もできない、応用できない可能性が出てきます。
師匠の言葉を受け、自らが考え、実践したうえで「先生、これは不要な力みを抜けという意味ですか?」という確認をする、そんな事の繰り返しが学習のような気がします。
その点で言えば、教える側として、どこまでわかりやすさを出していくのか?という問題は存在します。
立て板に水を流すような、弟子にスッと入るような説明が出来るということが良い指導者の条件ではないような気もします。それは、説明がスッと入るとわかった気になってしまい、自分自身で思考する事をしなくなるのではないかということからです。
時として、わかりづらさも勉強には必要なのだと思います。
わかりやすさとわかりづらさの使い分けは、個々人によって違いが必要ですので、極めて難しいところです。
様々な教える立場の方達とお話をすると、最近はわかりづらい事があると、思考放棄をしたり、勉強に来なくなったりということもあるようです。
教える立場と教わる立場、その両方に身を置いていると、こういう葛藤があります。